special

思いつきと巡り合わせで生まれる「小さくて特別なもの」。

2010年1月

わたしたちがしようとしていることは

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COYAの客席はたくさんの人で埋まっていて
押し出されるように厨房の隅に立って誰かの声を聞いていた
今年一年聞いてきた誰かの声
うまくいった夜も
声がうわずった夜もあった誰かの声を聞きながら
ふと天井を見上げ
こんな天井だったんだと思った
何度も立った場所なのに
こうして天井を見上げるのははじめてのように思えた
うちっぱなしのコンクリートにペンキが塗ってあるグレーがかった白い天井
しんと静かな清潔感と誠実さが天井にまで宿っている
毎日ここで働く人の吐く息や鍋からのぼる湯気に撫でられる厨房の天井
こういう場所を借り受けて
させてもらっているのだと
あらためて思う
忘れてはいけないと思う
天井のすぐ下の壁にはモノクロの写真が貼ってある
床に座り込む聴衆を前にケルアックが両手を広げて朗読している写真
この会が一年続いたときに
ほら、これ、ここのライブに似てない? と店主のジュンさんが貼ってくれた
嬉しくて、まいまいに指さして知らせて
ほら、わたし達はあれをやってるんだよ、と言ったら
まいまいは涙を流しながら笑って頷いたんだった
自分たちがどこへ向かっているのか
この道がどこかに続いているのか
あの頃はちっともわからなかった
今もわからないけど
わからないことで不安にならないくらいには場数を踏んできた
書いて、読んで、恥ずかしい思いも悔しい気持ちも情けない後悔も味わってまで
わたし達がしようとしていることは......
誰かが歌ったうろ覚えの歌を歌いながらポケットに手を突っ込んで歩く帰り道
からっぽのポケットははじめひんやりしているけれどだんだんに温かくなる
それはわたしの手の持っている温かさが小さなポケットを満たすからだ
死んだ人の手をポケットに入れておいても
きっとこんなふうに温かくはならない
温かい血の流れる手は
はじめは冷たくてもすぐに温かさを思い出して
取り戻して
小さなからっぽのポケットを温かくする
そのポケットがまた
わたしの手をさらに温かくする
うろ覚えの歌とからっぽのポケット
それだけの帰り道
わたし達がしようとしていることは
こんなにも小さい
空の星みたいに小さい

2010.01.28 14:07

小さな窓を開けることー畑尾和美さんとの往復書簡 6(最終回)

村椿菜文様 

 「なんで朗読をするんやろう」何度か回数を重ねて、ひと息ついた今、まさに、そのことを考える時がきています。
 「朗読」という言葉では硬く感じてしまうのですが、文章を声で表現する活動をしていると、母の口伝いに教えてもらった唄や、おばあちゃんが戦時中の満州にいた頃の話をしてくれたのを思い出します。普段、私は京都の日本茶の喫茶室で働いているのですが、お客様のお話を聴きながら勝手に自分の記憶の景色に重ねて想像をするんです。手取り足取りに丁寧な情報として伝えることも必要ですが、耳でひろった言葉から五感を働かせてイメージすることも大切なのかもしれない。「畑尾さんの家族と会ったことがないのに、お父さんやお母さんがサザエさん一家のように頭の中で動いていました」「一緒に山を歩いている気分になりました」と、朗読会に足を運んでくださった方から、参加してくれたことが伝わってくる感想をいただいて、そう考えるようになりました。本という形で詩や言葉を伝えることに「どうしてなんだろう」と考えないのと同じように、私たちが人前に立って朗読をしていくことで、声で表現することも誰でもが気軽にできて身近に感じるようになるんじゃないでしょうか。もちろん、そのためには誰かがアクションをし続けること。小さな窓でもいいから気持ちを共にして、謙虚に真面目に開いていきたいですね。そして、何でもそうですが、とくに朗読会は自分ひとりでは行うことができません。人との関わりの中で生まれる時間だからこそ、その日のために丁寧に気持ちを注いでいきたい。改めて、そう思います。
 菜文さん、私もいつか自分の本を出版したいと思っています。それは「声の本」です。どんなイメージが膨らみますか? まだ、どういったものができるのかわかりませんが、朗読を続けていくことで何かが見えてくるんだと思います。誰かがそっと教えてくれるような気もします。そんな形のない夢に向って、また気持ち新たに自分の足元を見つめながら歩いていきたいです。
2010.01.23 10:02

小さな窓を開けることー畑尾和美さんとの往復書簡 5

畑尾和美様 

 そうですね。わたしも朗読会のテキストのすべてをお渡しするということはしません。まあわたしの場合、往々にして準備不足という情けない事情もあるのですが。
 わたし自身、他の誰かの朗読を聴くときには音楽に耳を傾けるように聴いています。だいたいの言葉は耳の横をさらさらと流れていきます。でも帰り道にふといくつかの言葉が頭に浮かんで耳の奥で転がすようにして歩いていたり、翌日の朝ごはんの支度のときに口をついて出てきたりします。いろいろな目的と、それに合ったスタイルがあるのだろうと思いますが、わたしはそんなふうに、多くを「さらさら」と聞き流し、その中でいくつか耳に残った言葉を持って帰ってもらえたら、それで好いと思っています。
 畑尾さん、どうして朗読なんてするのでしょうね。そう考えたことはありませんか? わたしは、はじめたばかりの頃はただ「こなす」だけで精一杯で考えたことはなかったのです。でも会を重ねるごとに考えるようになりました。どうして朗読なんてするんだろう。
 縁あって地元のコミュニティラジオのパーソナリティを1年半ほどさせていただくことがありました。番組の中で毎週詩の朗読をしていました。それがどう受け止められているのか、いわゆる手応えというものは番組中あまり感じることができなかったのですが、3番目の子の妊娠をきっかけに番組を降りることになり、最終回の放送では何通かメッセージをいただくことができました。どれも温かいもので、こんなふうに聴いていてくださった方々がいらしたんだと思ったら嬉しくて、これから出産という大きなお腹を抱えているのに「もっと朗読の会を持ちたい」と思ったのでした。文章を書くのはひとりの作業ですが、会を持つことができればいろいろな人の顔を見てお話することができます。それは窓を作り、開くことです。そんなことを、楽しく真面目にやっていけたらと思うのです。

2010.01.22 07:46

小さな窓を開けることー畑尾和美さんとの往復書簡 4

村椿菜文様 

 確かに1時間もの長い時間をお付き合いいただくのですから、私も「みなさん大丈夫ですか?」と聞いてしまいます。詩の朗読にイメージを持っている人もいれば、どんなものか想像できないという人も来てくださいます。それより、何より、紙をぱらぱらと持っているだけで、目の前に座った "畑尾和美" という人の情報が、まったくないところから幕が上がる訳ですから、5分や10分では何も伝えることができないと気がつきました。だから、20分から30分で自己紹介を兼ねて行い、残りの30分を楽しんでいただけるような内容を考えます。
 菜文さんにとっての朗読という冒険は、私にとっての舞台かひと幕ものの芝居なのかもしれません。学生の頃、小さな劇場の芝居を観に行くのが好きで、月に3回は通っていました。役者の息づかい、身体から伝わる温度、流れる汗、時に起こるアクシデント。筋書きはあるのだけど、その時、その場所、そこに集う人と人が作り上げるライヴな時間に引き込まれ、テレビのドラマや、映画とは違う身体で感じる楽しさに夢中になりました。そして、知らず知らずのうちに興味を持っていたのが演出です。人を楽しませるために、驚かせるために、ぐっと食い入ってもらうためには、そんなことを考えながら文章を選び、順番を考え、1時間という時間をイメージします。来てくださった人に文章のテキストは渡しません。本の目次のように、その日に読むものの題名だけを書いた紙を配ります。言葉をそのまま伝えたい訳ではなく、そこで感じたこと、気持ちに引っかかったものを持って帰ってほしいからです。きっと、文字で伝える文章と、声で伝える朗読の違いがそこにあるような気がします。
 そして、ライヴで行う朗読のおもしろいところは、ダイレクトに感じたことが返ってくるところかもしれません。いつも終ってから、みなさんにひと言ずつ感想をいただきます。自分の思ってなかったことや考えていたことに気がつく人もいるので、いつの間にか、みなさんと会話をする形になっています。それもライヴだからこその醍醐味。そういえば、松江のDOORというブックストアで、文章を入れた封筒を50点ほど天井から吊るして、気になったものを読んでいただくという個展を行いました。その展示を観てから、朗読会にも参加してくださった男性が、文字で伝える文章は「写真」で、朗読として同じ言葉を聴くと「映像」として動き出したと言うのです。伝える側の声の強弱が、新たなエッセンスとなるのでしょうね。そんな新鮮な意見を吸収できるのも、人と人が顔を合わせて行う朗読会だからこその特別だと思います。
2010.01.21 08:43

小さな窓を開けることー畑尾和美さんとの往復書簡 3

畑尾和美様 

 赤ん坊連れの朗読会はいつも「こんなの無茶だ!」と直前になって思うのです。「やります、行きます」と言い出したのは自分のはずなのに、昨日までただ寝ているだけだった赤ん坊は次の週にはさかんに泣くようになり、はいはいをはじめ、人見知りをするようになり、ついに今では歩くようになっている! 「やります」と言ったときと、実際にその日が近づいてきたときと、状況は常に変わっているのです。だからほんとうに、毎回が冒険です。その冒険に付き合って(しかもお金を払って!)くださるお客様、場所を提供してくださる方々には感謝という以外に言葉がありません。まあ今後、赤ん坊をどうしていくかは状況に応じて考えていかなければなりません。
 赤ん坊がいてもいなくても、朗読会は常に1回きりの冒険です。場所の空気、お客様が違うと、同じものを読んでいてもはっきりと違うものになります。それはいつもわたしをわくわくさせるし、同時に怖さも緊張感も味わうことになります。いつまでたっても慣れることができません。
 朗読をしているとどうしても聞く側の反応を期待してしまいます。「大丈夫ですか? 楽しんでますか? 退屈ですか? 疲れませんか?」ほんとうはあれこれ質問攻めにしたい気分なのです。例えば音楽のコンサートのように踊ったり手拍子したり、一緒に歌ったり、そんなことが朗読でもできるといいのかもしれません。わたしは「聴衆巻き込み型」というのがいつまでもできないでいます。声に出して読む以外に能がなく、勝手にずらずら読んで、はい、おしまい、です。人を笑わせるのは難しい。楽しんでもらうのは難しい。わたしにはまだまだアイディアと度胸が足りません。朗読会なんて見たことも聴いたこともない方には、堅苦しく難しいものに思えるようです。気楽に自由に聴いてもらっていいのだということを、小さな会を積み重ね、この気楽でいい加減な自分の顔を人前に出すことで伝えていけたら好いと思っています。
2010.01.20 11:37

小さな窓を開けることー畑尾和美さんとの往復書簡 2

村椿菜文様

 菜文さんと出会ってもう何年経つのでしょう。私自身、今年行ってきたように、文章や言葉の作品をいろんな土地に出向いて発表するようになるとは、あの頃は思っていませんでした。手探りながらも文章を書いています。人前に立ってリーディングも行ってきました。何らかの形で続けてきたのだから、こうして朗読について話をするのも不思議なことではないのでしょうね。

 菜文さんがbeyerで行う1ヶ月前の2月に、葉山のsorairoで1時間という時間を決めて自分ひとりの朗読会を行いました。ひとりで1時間という形は何度か経験していましたが、今年の課題は参加費としてお金をいただいて行うということ。ただ聴いてもらうのではなく、聴いていただくことを私自身に言い聞かせて、責任と課題を自分に与え、より好い形を目指したいと考えました。葉山からはじまり、大阪、京都、新潟、和歌山、岐阜と、たくさんの人のおかげで、今までに行ったことのない土地にも伺うことができました。そうやって、あらゆる場所の、自分とは違う生活を見つめている人たちに伝えることで、もっともっと、これからいろんなことを経験して、視野を広げ、多くのことを知るべきなのだと感じました。そして、「朗読会でも、個展でも、ひとりで行うことはできない。場所を貸してくださる方々、協力してくださる方々、参加してくださる方々、観にきてくださる方々、自身を支えてくださる方々、そんな関わりを持つすべての人たちのことを考えて準備をすることが大切」と、会を考える中で感じたことをまっすぐ伝えてくださる人に出会えたことは、私にとって朗読の行脚を行って得た大きな大きなものとなりました。あらゆる土地に出向き、言葉を声にすることで、たくさんの素晴らしい出会いをいただきました。そして、今後へのさらなる課題を頂く大切な1年となりました。

 冬にbeyerで行った菜文さんの朗読会、ぬくもりの中で寝ていた赤ちゃんが、夏には声やアクションで一緒に参加していましたね。そんな家族と過ごす時間の中で言葉を育み、集う人たちを包み込むように声を届ける菜文さんも、次々に新しい試みに挑戦されています。今年行った朗読会を通して、菜文さんが感じたことを聞かせてください。

畑尾和美

左手も添えて

洗濯機の上の裸電球をつける
片手では安定が悪いし
両手を伸ばして
指先を上向きにくるっとひねる
カチッという音とともに
やわらかい明かりが灯る
それだけのことで肩の力がふうって抜ける
人差し指一本でたいていのことは簡単にできる生活
便利に慣れてしまうと
小さなことに気持ちを注ぐのを忘れてしまう
何てことないことでも
思うように上手く出来ひんかったら
次にそれと向き合う時には
気持ちの中でちょっと立ち止まる
ただ、裸電球がぶらりと揺れて
片手ではつけにくかっただけのこと
右手だけじゃなく、左手も添えてみただけのこと
それだけで時間が止まったように
ひとつの事柄と
気持ちを留めた自分自身と向き合っていた
一年経てば片手で付けたり消したり出来るようになる
なんも考えんと付けてしまった時には
最初の気持ちを思いだして
もうひとつの手をそっと添える
立派な生活がしたい訳じゃない
なんでも受け入れるのに時間のかかる性格なんやし
焦らんと
丁寧に向き合っていきたい


2010.01.19 08:10

小さな窓を開けることー畑尾和美さんとの往復書簡 1

声に出して読む。
目の前にいるその人たちに届くように。

2009年、畑尾和美さんは「朗読行脚」と称して各地を巡りました。

そんな畑尾さんと村椿菜文の、朗読をめぐる往復書簡です。
全6回。
のんびり読んでみてください。


畑尾和美様

 朗読は、もうずいぶんやってきたように思い込んでいたけれど、まったくそんなことはないんだ、すべてはまだはじまったばかりで、自分はよちよち歩きの赤ちゃんなんだ。
 2009年3月に大阪のブックカフェbeyerで行った朗読会で感じたことです。だいたいひとりで大阪に行って(しかも3人の子ども達を連れて)、朗読の会を開くなんて、それまでの自分の行動半径を思えばものすごいことであったはずなのに、ぽんとひとつ手をたたいて「行ってしまおう」と思い立つことができたのは畑尾和美さんのおかげです。畑尾さんはそれこそ身ひとつでこちらにぽんとやってきて(もしかしたらそれほど身軽で気軽なことではなかったのかもしれませんが、わたしにはそういうふうに見えました)日中は葉山で朗読会をひとつすませ、夕方には逗子のCOYAにやってきて、またステージに立っていました。「20分ほどお時間ください」と読みはじめた畑尾さんの声に夢中で聞き入りました。あの場にいた誰もが畑尾さんの言葉が紡ぐ世界に引き込まれていたと思います。畑尾さんの姿にわたしは励まされ、勇気づけられ、「ならばわたしも」と関西行きをその場で決めたのでした。
 2009年の秋、朗読行脚にひと区切りをつけた畑尾さんに是非とも聞いてみたかったのです。
 畑尾さん、朗読行脚いかがでしたか。畑尾さんにどんな変化をもたらすものだったのでしょうか。

村椿菜文



ひとつずつ

一度にたくさんのものを遠くに飛ばせなくても
ひとつずつ手渡せるものがあればいいかなって
最近、思うようになってきた
こわれないように
こぼれないように
ひとつずつ手渡す
ずっとしまい込んできたもの
隠してきたもの
カビ臭いかもしれないから
ホコリを払って風にあてて
受け取ってくれる人の顔を思い浮かべながら
こわれないように
こぼれないように
ひとつずつ手渡す

2010.01.18 08:09

はじめましてのご挨拶

 『マーガレットプレス』というのは年に3回発行している手作りの小さな冊子です。編集長はいちおわたし、村椿菜文です。いちお、というのは、編集長とは名ばかりで、この冊子はデザイナーの大塚千佳子、製本を担当している坂本真衣子、このふたりの働きによるところが大きいからです。

  『マーガレットプレス』のそもそものはじまりは2006年4月に逗子のCOYAというカフェではじまったポエトリーリーディングイベント「la voix vent」に来てくださった方にお配りする冊子として作られていたものです。その後、形を変えて2009年4月から販売をはじめました。「la voix vent」のそもそものはじまりは2004年にはじまった、永井宏さんが主宰するワークショップ「assemble le souffle」に参加するようになり、永井さんに文章を見ていただくうちに「朗読をやってみないか」と熱烈に勧められ、「そんな恥ずかしいことできません」と断り続けていたものの結局断りきれずにはじまったものです。2008年の暮れに3番 目の子どもを生んだのを機にわたしは主催者という立場からはずれ、今では同じワークショップ仲間の廣瀬義智君が主催し、手前味噌ですが、地味に真面目に続 いているなかなか好いイベントに成長しました。永井宏さんと出会わなければすべてがはじまらなかったと思っています。その永井さんをわたしに引き合わせて くれたのは永井さんと家族ぐるみの付き合いのあった夫で、だから夫と結婚せず知り合ってもいなければ・・・。とさかのぼるときりがないのでやめますが、「人生の転機」とひと口に言ってもその転機に至るまでの過程はどれも欠かすことのできない出来事で、すべてが無駄になっていないものだなあと思うのです。

 冊子を作る以外にウェブサイトも開設することにしたのは、冊子を作るだけではなく、何か別のこともしていきたいと思うようになったからです。「何か別のこと」というの がなんだかまだよくわかっていないのですが、これまでの活動を通じて得られた仲間もいることですし、何かできると思っています。ウェブサイトの制作にあ たって全面的に協力してくれたのが、大阪に活動の拠点をおくBOOKLOREの中島恵雄さんです。画面に咲いているマーガレットの花は永井宏さんにお借りしました。永井さんのWINDCHIME BOOKS、恵雄さんのBOOKLOREのお手伝いもできるといいと思っています。
 つい先日、家 でラジオ番組を聞いていたらリスナーからのこんなメッセージが読み上げられました。「あなたの番組をとても楽しみに聴いています。どうぞ、放送時間が深夜 になってもかまいませんので番組を続けてください。」というものでした。番組改変期でもないのに「どうぞ続けてください」というメッセージに、わたしはふ と思いました。古くからある愛着のある場所でも、雑誌でも、物でも、消えていくのはあっという間の世の中に「良いものは残らない、続かない」という気分が あって「残ってほしい、続いてほしい」という願いの裏には「どうせ残らない」というあきらめがあるのではないかと。

 古いものが好 いというのでもなく、新しいものがいけないというのでもなく、わたしはわたしが好きだと思えること、好いと思えるものを選んでいこう、続けていこう、と 思っています。時代の気分に流されずに、あきらめずに。それはおそらく簡単なことではなく、きっと間違いもたくさん重ねるでしょう。そしてそう多くの人目 をひくこともなく、地味に小さく続けていくしかないことなのだと思います。ほんとうに、小さなこと。小さくて特別なこと。  まあしかし、ウェブを開設したというだけでこんなに長々とご挨拶文を書いてしまうあたり、わたしもちょっと気負いすぎかもしれません。  それでは一度、深呼吸して。  どうぞよろしくお願いします。

2010年1月 村椿菜文
2010.01.07 10:56